録音に関するエトセトラ①


クラシックで有名な曲、パッフェルベルのカノンをレコーディングしてみた。

自分で機材を揃えていろいろ試してみようと思ったのは、そもそも振り返ってみると5年ほどお世話になった悠情楽団での経験が一番影響している。

クラシックプレイヤーのほとんどは、あまり自分の音をレコーディングするということを考えない。日本中や世界で活躍する一流プレイヤーの演奏を聴いて勉強して、いつか彼らのようにミスなく上手にヴァイオリンが弾きたいと思う、常に向上心があり学生のような心を持つ奏者ばかりだからか。

不思議に思ったのは

芸術大学を卒業しても、「未だ」そう考えて研鑽している奏者が多いということだ。つまり、まだまだ自分は未熟で(コンサートではそんなことは言わないが)とても彼らのようなCDを出したりする身分ではない、と言っている感じに思える。

自分に自信を持ってない奏者。

ということになってしまうんでしょうか・・・?
彼らとそういう話をすると、

「そうではないが・・・まだまだ自分は・・・」

という按配だ。誰かに一押ししてもらわないとなかなか前に出ることができない。心配でしょうがないけど、勉強してきた、人一倍バイオリンには自信がある・・・

といった煮え切らない思いの人が多い。大学を卒業しても、学生の頃に師事していた先生の門をたたいてレッスンしてもらう人もいる。
プロとして活動しているのに自己研鑽の心がこれだけ強いのも、考え方次第では素晴らしいとすら思える。

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自分たちの手本としていた巨匠たちのレコーディングCD

CDとは、テクニック、芸術性、知名度をもつ一部の限られた人たちが出すもので、それと同等か超える存在でないと(CDを)作れない。という感じがあると思う。

もちろん、レコーディング費用の高さも理由の一つだが。
クラシックプレイヤーはそういう集団だ。
極みに対する尊敬と恐れ。

だが、ポップスのプレイヤーは違った。

もちろん彼らも陶酔して師と崇めるプレイヤーやCDがある。だが彼らはクラシックプレイヤーと違い、

  • 他人の作品はあくまで他人の作品。過去の作品ではなくオリジナルを作ることに価値があると考える。
  • うまい、へた、という観念は技術に対するものと言うよりむしろ「カッコイイ、ステキ」感覚を大事にする。
  • クラシックと違い、ほとんどのプレイヤーは音楽では全く食べていけない土壌があるため、CDなどの販売物を作って売ったり自分たちの宣伝がかなり重要視される。

なのでポップスのCDはとにかくたくさんある。
5年前にポップスのグループに出会ったため、
そういうことがよくわかった。

自分の音を創ること。

練習を重ねて、ステージの上で披露するだけでは勿体無い。

今の自分、過去の自分、これからの自分。

いろいろ考えるためにも「残す」という行為は大事かなと思う。
1年前、ニュートンズというグループで初のレコーディングを試みた。当然プロのスタジオでの試みだ。

いろいろ問題がてんこ盛りだった。

  • クラシックの作品だけど、ステージではなくスタジオで録音。
  • 初めて演奏する曲も多くとにかくミスタッチすることが多いため補正作業がとても多い。クラシック奏者として楽譜通りに弾けないことはある意味恥ずべきことだ。
  • 作業工程がとても多く、自然な音楽というより造られた感の強い音作り。

CDを作るということがどういうことか、どういう苦労があるか、何をしたいのか、いろいろ変革をもたらした。

地元、愛知県には数多の若いクラシック奏者がいる。

彼らは僕に会うと「先輩、ほんと活躍されてますね。スゴイです」と言うようなお世辞(?)をするが、僕が彼らと違うのは、特別な技術があるわけでもないが、あまりクラシックプレイヤー全般に見られる固定概念がないから、いろいろ垣根なくやっている・・・と言うことに過ぎない。

これからの時代、一人で大概のことができる時代だ。

せっかくの人生だ。パーッとやろうぜ?

冒頭のレコーディング、カノンだが音の録音は修正もしていないので1時間もかかっていない。CDにだすなら、音程の修正、打ち込みを生楽器に置き換えて録音。

などの工程も必要なのでアレだが、個人で気楽にさらっと作るレベルは、頑張ればかなり高いところまで行けると思っている。
まずはミキシングの勉強だな。

録音に関するエトセトラ①はこれにておしまい❗️

最後までお読みいただきありがとうございます!
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